2007年09月20日
コンスタンティノープルの陥落
コンスタンティノープルの陥落とは、1453年5月29日、オスマン帝国(オスマン・トルコ)のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)が陥落し、ローマ帝国が最終的に滅亡した事件である。
この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると、帝国という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルとペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。東ローマ帝国の1000年を超える歴史の中で、コンスタンティノープルは幾度となく軍隊に包囲されてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回だけであった。また、10世紀のブルガリア王シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。
開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。歴史家ドゥカスの伝えるところでは、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449年-1453年)がまだ若年のスルタンを牽制する意図でコンスタンティノープルに亡命していたオスマン家の王子オルハン(メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビの孫)を対立スルタンに擁立する事を警告した事にメフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。
メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味の言葉でルメリ・ヒサルと呼ばれた。
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